◎紙上のダンスとは・・?
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サイレンスダンスでは、
健康医学でなくスポーツでもない。
ましてやダンスでもない。
そんなカラダにまつわる現象や
身体感覚を取り扱っていきたいのである。
【紙上のダンス】とは、
おもにサイレンスダンスに於ける文章表現を示す。
つまり、読むダンスである。
だが、紙の上のダンス〜?と
怪訝な顔をされることが多々ある。
言語におきかえることが
困難なことを対象としており、
デリカシーのない朴念仁や
地頭のわるい奴に
いちいち説明する必要はないなどと
過激なことはおもっておらず、
やはりより多くの方に
共感してもらえるものでありたい。
だが公演やワークショップに
参加できる方は限られている。
くわえて話言葉で説明するのが困難なので、
書き言葉で文字を連ねている。
謂わば、カジュアルな身体論なのである。
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◎四百字のダンスvol.6___四階練習室
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数年前から定期的に使用している練習室がある。
名古屋市郊外の公園内という立地上、
身体に向きあう環境としては申し分ない。
練習室の三つの曲面の窓からは、
西方向に市外の眺めがうかがえ、
眼下に公園の木々の落とす緑陰がみえる。
夏には、プールの歓声やら蝉の鳴き声が聴こえてくるだろう。
公園には、圧倒的におじいさんが多い。
なぜか、おばあさんはいない。
おじいさんにとっては、家のなかより樹の下が安らぐらしい。
彼らの頭上に長閑なときが流れている。
ちょっとアジアンな風情である。
ひとはだれでも、
住まい以外に精神を横たえるいくつかの環境が必要なようだ。
幼年期は、押入れの狭い闇だったり、
思春期は、学校から駅までの裏道だったり、
今では先の練習室、お気に入りのカフェ、本屋さん、 、
と年代や住まいが変わっても
場所やかたちをかえながらココロの立寄り先が存在する。
最寄り駅から自宅までの帰路をかえてみる・・。
なんてのも一興である。
場所をカラダのツボにたとえると、
ルートは経絡にあたるだろうか。
行きつけの店で過ごす時間やささやかなトリップ感覚は、
日々の淀みや澱を流しながら自己調整に役立っている。
◎四百字のダンスvol.5___カラダ発
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ひとと云うのは、
顔が識別できないくらいの距離でも、
そのひとがはたして、二十才代、三十才代、四十才代
なのかをなんとなく推測できたりする。
まずカラダの印象がちがう。
年を経るにしたがって、輪郭線が曖昧になってくる。
絵にたとえると、二十歳前後のカラダは、
細字のサインペンで一息にドローイングした
クロッキーのようである。
それに対して、中年期のそれは、
太筆で絵の具を何度も調合して、
塗り重ねたペインティングのようである。
それは、肉づきの問題だけでもない。
表現をかえれば、浮世の水に慣れてきたひとが
醸す安定感とも云えなくもない。
外界と肉体の境界が、緩くなったような印象である。
初老にいたると、さらに印象は変わり、
水分がぬけて枯れたあじわいが忍びよる。
他人を脅かさない安心感が漂いだす。
活動期にはないその魅力は、個人的には好ましい。
年齢、性別を問わず、
目にとまるカラダには中心を感じる。
カラダにぶれがない分、周囲に漂う空気が澄んでみえる。
中心の存在が明確なので、
発せられるエネルギーが目にみえるようである。
そんな身体の魅力は、
日頃の身体意識とともにその人の生き方の問題とも
関係しているようである・・。
◎四百字のダンスvol.4___平成衛生美人
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ここ数年、
この国の病的な潔癖性が気になっている。
電車の吊り革につかまれない妙齢の御婦人。
デパートなどの買い物袋が、
車中膝のうえや座席のうえにしか
置けなくなったのは、いつからだろう。
少なくとも80年代くらいまでは、
手荷物は、床のうえか吊り棚のうえに
置いていたのではないだろうか。
それほど自分を守って一体なにを得るのだろう。
そこには、自分さえよければいいという
利己的な価値観がうかがえる。
元来、
清潔好きな国民性だとはおもうが、
ここ数年は度が過ぎている。
あたりまえのように、キッチンや洗面所には
抗菌洗浄剤が常備されている。
人の身体は、
細菌から身を守るように皮脂で覆われているのに、
せっかくの天然コーティングを洗い流している。
やれやれである。
以前通っていた野口整体の道場では、
手に書かれたボールペンの字が、
水で洗い流せるようなら健康な皮膚であると教えられた。
そんな教えが戯言に聴こえるほど、
衛生信仰は年々進行している・・。
◎四百字のダンスvol.3___育てない体
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おもいかえせば、
小学校の体育は軍事教練だった。
戦前、戦中のはなしではない。
昭和40年代のことである。
体育の時間がくるのが苦痛でしょうがなかった、
と云うより恐怖であった。
大体、小学校中学年の正課の授業で、
近隣の小高い山を競歩とランニングで走破するのである。
当時、こどもの身体感覚では十数キロにおもえたものである。
自分のペースで走らせてくれるような融通性は軍国教育にはない。
木枝でお尻を叩いて走らせるのである。
夏のプールでは、
3年生全員が25m泳げるように教育していた。
もともとの運動音痴にくわえて、
この当時の体験ですっかりスポーツ嫌いになってしまった。
従来の義務教育の体育は、
必ずしも、字が示すように体を育ててこなかったようだ。
たんなる競技やスポーツととらえず、
身体機能への理解やリラクゼーション。
さらに美術や音楽と連係すればゆたかな授業内容になるはずだし、
私のような体育嫌いの生徒を生むこともなかっただろう。
いま、迷える総合教育の現場では、
ひとつのメディアとして身体の可能性を探っている。
こんな時代こそ、われわれの出番があるはずなんだが・・。
◎四百字のダンス_vol.2 ___ 公称、、
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私には、ひとつだけ特殊能力がある。
ひとの身長と体重を目測することが可能なのである。
巷間、男性の170cmと女性の50kgは、
暗黙の身体基準になっている。
168cmの男性は、大概公称170cmだし、
52kgの女性もまた公称?49kgである。
だが2cmの差や3kgの差の識別は、
わたしには一目瞭然。朝飯まえである。
すれちがいざまに、女性のヒールの高さや
ウェストの太さを推量する癖がついている。
だから、わたしのまえでは、カラダのサイズを
さばよまないほうが身のためである。
この能力は、幼い頃からのカラダへの興味のせいなのか、
多感な思春期に、裸婦クロッキーをげっぷがでるほど
描いたからなのだろうか・・。
さらに興味深いのは、実際のサイズより
大きくみえたり小さくみえたりと、
カラダの印象は、ひとによってずいぶんちがう。
なにが印象をかえているのかを
思慮するのもまた一興であるし、
現実の数値よりもそのあたりに
大事なことが存在する気がしている。
しかし大人の配慮として、
サイズを指摘したりはしませんからご安心を・・。
◎四百字のダンスvol.1___聴くチカラ
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なぜか、
まわりにひとのハナシを聞かない人がふえてきた。
質問しておいて、相手の内容に興味がないと
話の腰を折ってしまう人や、今日もよく喋ったぁ~と
発散して晴々とひきあげる人、
黙ってるので聞いてるのかとおもいきや、
ただ話が終わるのを待ってる人・・。
逆に聞く行為は、地味で受け身におもえて、
その実、集中力と忍耐力のいる作業である。
一方的になりがちなはなす行為よりも
エネルギーが必要だったりする。
疲れるととたんに相手のはなす内容が、
理解しずらくなることからもそれは頷けるだろう。
聴くチカラは、呼吸と関連しているようだ。
ハナシが聞けないのは、
吸う力=呼吸が浅いのではなかろうか。
ワークショップの参加者に一分間の呼吸数を測ってもらう。
二分ほどの呼吸法のあとで、
ふたたび計測すると回数はたちまち半分以下になる。
息をととのえれば、状況判断も可能になり身体もすこやか、
人のハナシも聞けるようになり、いいことずくめである。
人はだれも自分のことを聞いてもらいたくて
彷徨っている存在である。
まずは呼吸を整え、耳を澄ますことからはじめてみませんか・・